40.染物屋 紺徳・パサージュ鷹匠/望月誠一朗氏(1)

2016年04月21日12:00
今月の物語の主人公は・・・
パサージュ鷹匠オーナー・望月誠一朗(もちづき せいいちろう)さん

40.染物屋 紺徳・パサージュ鷹匠/望月誠一朗氏(1)
 1958年静岡市生まれ。老舗染物屋の3代目。2010年に静岡市葵区鷹匠2丁目に、路地のあるテナントビル「パサージュ鷹匠」を建て、鷹匠2丁目のまちづくりを牽引するひとりとして活躍中。

「パサージュ鷹匠」ホームページ
Passage-TAKAJO パサージュ鷹匠 ブログ

【ラジオ番組出演レポート】
「eしずおか探検隊」2013/10/7
「eしずおか放送室」2014/4/7
「eしずおか・まちぽ放送室」2015/10/5


※聞き手は、(株)しずおかオンライン代表/海野尚史さんです。
※この記事は、全3回のインタビューのうちの1回目です。
≫インタビュー2回目はこちら
≫インタビュー3回目はこちら

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 静岡市葵区鷹匠2丁目の住宅街にある小さなランドマークビル「パサージュ鷹匠」。周囲の景観を引き立てる洗練されたデザインのパサージュ鷹匠は、90年以上も続く染物屋の望月誠一朗さんが、6年におよぶ年月を経て完成させました。表通りと裏通りをつなぐ路地があり、ぶらりと散策を楽しめる回遊性の高い建物にさまざまな店舗が入居。最近では、近隣に個性的な店舗が次々とオープンするなど、鷹匠2丁目に新しい風を吹き込むきっかけとなっています。今回は「パサージュ鷹匠」が誕生した経緯とこれからについて、そのオーナーであり、老舗染物屋でもある望月さんにお話を伺いました。

40.染物屋 紺徳・パサージュ鷹匠/望月誠一朗氏(1)

* * * * * *
 

|本業は老舗染物屋さん。

-はじめまして、海野です。今日は「パサージュ鷹匠」の生みの親である望月 誠一朗さんにお話をお伺いしたいと思います。よろしくお願いします。

望月/望月です。よろしくお願いします。

-「パサージュ鷹匠」はいまでこそ鷹匠2丁目の顔として注目の存在になっていますが、それ以前には何があったのですか?

望月/もともとわたしは染物屋でして、といいますか現役の染物屋なんですが。「パサージュ鷹匠PART.2」のあるこの場所には染物工房がありました。

-「紺徳」という、老舗の染物屋さんと聞いています。

望月/はい。大正10年の創業で、90年ほど続いています。わたしは3代目です。

-そちらが本業なんですね。

望月/そうです。静岡市内の同業者には「紺文」さんや「紺友」さんなど「紺」のつく屋号のお店がありますよね。みんな創業者の名前からとったもの。「紺文」さんは「文六」さんで、「紺友」さんは創業者が「友吉」さんから。「紺徳」は、初代「徳蔵」の名前からついたものです。

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|厳しい環境から工房を閉鎖。

-工房を閉めて「パサージュ鷹匠PART.2」に建て替えたきっかけは?

望月/PART.2が建つ前にあった染物工房は、朝鮮戦争の頃に祖父と父親が建てた年季のはいった工房で、長い間補修を重ねながら使用していました。転機となったのが、2011年の東日本大震災。

かねてより耐震性の脆弱さが指摘されていましたが、あの惨状を目の当たりにして「このままでは何かあったら倒壊するのみ。それは廃業ばかりか、家族を失うことになりかねない」と、当初の計画を前倒しにして「パサージュ鷹匠PART.2」の計画をスタートしました。

-静岡県民にとって、東日本大震災は他人事ではありませんからね。

望月/そもそもからお話ししますと、それ以前から染物の仕事は減少し、職人の高齢化や引退などもあって、将来を取り巻く環境は厳しさを増していました。

紺徳では、40年以上にわたって「新静岡センター」さんの仕事を請け負っていましたが、2009年からの4年間は「新静岡セノバ」への建て替えのため、年間相当額の売上がなくなっていました。

同じころ、当店の職人さんが、事故により長期間仕事から離れることになってしまって…。そのような背景に震災が重なって、染物の商売を継続していく方法を真剣に考えるようになりました。


|背中を押してくれた方との出会い

-「パサージュ鷹匠」のアイデアは、最初からあったのですか。

望月/いえいえ、わたしは染物屋ですから。この場所で何ができるのか、何がいいのか、少しもわかっていませんでした。とりあえずいくつかの不動産をまわってみたものの、まったく相手にしてもらえませんでした。

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-そんな状況で、どんなプランを検討されたのですか。

望月/「パサージュ鷹匠PART.1」のある場所はもともと月極駐車場でしたので、最初は「機械式コインパーキング」の導入を計画しました。でも、月極で10台預かっていたのに、機械式では半分の5台しか設置できないことがわかり、この案は脚下。

次に検討したのは、コンビニです。しかし、深夜の住宅街に車の出入りがあったり、夜間にいろいろな人がたむろしたりするかもしれません。そう考えると、コンビニも無理だと。ほかにも「カーブス」という女性のフィットネスジムなども調べましたが、「カーブス」は郊外型サービスで、市街地向きではないことがわかりました。

-それらは周囲の環境条件や事業採算性を考えると実現性が低かったと。それからどうされたのですか。

望月/最後にたどり着いた不動産会社で紹介されたのが、現CSA不動産の小島社長さん。当時は不動産会社の社員ながら、ご自分で複数の店舗経営をされていました。小島さんは、初対面のぼくの話に親身になって耳を傾けてくれました。

小島さんからいろいろなアドバイスをいただくうちに、いつしか「この人となら」という思いが強くなりました。そして、このころ小島さんから紹介されたのが、アンフィニホームズの吉川社長です。

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望月/「染物屋という商売をこの先も続けられるか?」「目の前の経済の荒波を超えられるか?」など、おふたりに自分の心情を忌憚なくさらけ出したところ、ぼくの気持ちに同情と理解を示してくれて、商売の枠を超えたおつきあいがはじまりました。

小島さんと吉川社長は、揺れ動き迷うぼくを、辛抱強く励まし支えてくれました。時にはお尻を蹴飛ばされながら、何度も頓挫した「パサージュ鷹匠」計画が、現在のカタチに近づいていったんです。

-おふたりとの出会いをきっかけに、計画が動き始めた。

望月/はい。検討を始めたのが2009年。その前年に、耐震強度偽装「姉歯事件」や「リーマンショック(金融危機)」などが起こり、不動産事業を始めるには最悪のタイミングでした。

周囲からは「不動産屋にだまされている」とか「建設会社を儲けさせるだけ」などの指摘もいただきました。たしかに、周辺の雑居ビルのテナントは空き物件が目立っていましたし…。今となっては笑い話ですが、当時のぼくには精神的にかなりキツかった時期でした。


|パサージュ鷹匠へのきっかけ

-マイナスな環境からのスタートだったのですね。

望月/計画が行き詰まりを見せる中、二つの出来事が起こりました。

ひとつ目は、ご近所でマンションの建設が始まったのですが、その施工業者がアンフィニホームズさんだったこと。吉川社長さんからも「目の前でビルの建つ様子を確かめてください」との言葉が。ビルのテナントに入居したのがフランス料理店『La Cave de NAGAFUSA』さんでした。
そしてふたつ目が、ナガフサさんのとても素敵な内装をデザインしたのが、建築デザイナーの大鹿洋子さんだったことです。

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-そこからいまのパサージュの姿が?

望月/いえいえ、染物屋がいきなりこんな事業を興すなんてことはありえません。この場所で何かしたいと思っても、ふつうの発想では2階建てのテナントビルぐらいしかできないものです。

-経済合理性で考えれば、床面積×賃借料の最大化という発想になりますからね。

望月/そうです。実際、最初にご提案いただいたのは、ふつうのサイディングのテナントビルで、建築申請も提出しました。不動産事業としてはまっとうな、賃貸面積を大きく確保した収益優先のプランでした。当然、お金を生まない共有地(路地)はありません。それに、こんな形の変わった土地は不利になりますし。


|素敵なご縁と直感で決まった完成イメージ

-どうして、いまのような洗練されたデザインのビルに変わったのですか?

望月/申請中のプランを、吉川社長と親しくされていた東京在住の女性建築デザイナー・大鹿洋子さんに見ていただく機会がありました。そのプランを見た大鹿さんに「これじゃ、ダメよ!」と一蹴されてしまって。

大鹿さんはその場でドローイングを描いてくれました。30分ほどで描きあげられたそれが、あまりに素晴らしくて。わたしも吉川社長も一瞬で気に入りました。その時のスケッチをそのままカタチにしたのが、いまの「パサージュ鷹匠」です。

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望月/建築申請を出していた最初のプランをすぐに取り止めて、大鹿さんがスケッチした新しいプランに作リ直して再申請したんです。あの階段の手すりも、そのスケッチのままなんです。


-そんなことがあったのですか。それにしても思い切った軌道修正ですね。

望月/大鹿さんは、吉川社長から「紺徳が何かつくるらしい」と耳にして見てくれたのです。後になって、実はぼくの父親が長い間趣味で稽古にでかけていた、長唄の社中で顔を合わせていた娘さんだったと知りました。

その娘さんが成長して東京に嫁いで、建築デザイナーとして活躍していたんです。そんな出会いに驚きましたが、だから余計に信頼することができました。

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Posted by eしずおかコラム at 2016年04月21日12:00 | 40.望月誠一朗さん
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