42.株式会社玉川きこり社代表取締役/原田さやか氏(2)
2017年04月21日12:00
今月の物語の主人公は・・・
株式会社玉川きこり社代表取締役・原田さやか(はらだ さやか)さん
愛知県豊橋市生まれ。大学入学を機に静岡へ。仕事を通じて玉川のおばあちゃんと出会い、静岡市の山村〝玉川〟を知る。2008年に「安倍奥の会」を立ち上げ、安倍奥・玉川の魅力を伝えるとともに、2014年3月には玉川地区に移住し、株式会社玉川きこり社を設立。代表取締役就任。「きこりと子育て」を事業テーマに活躍中。
◆玉川きこり社(HP)
◆玉川きこり社 blog
※聞き手は、(株)しずおかオンライン代表/海野尚史です。
※この記事は、全6回のインタビューのうちの2回目です。
≫第1回 それほど山の暮らしが合っていた
≫第3回 絵空ごとだった事業計画
≫第4回 目指せ、日本一みんなで子どもを育てる村
≫第5回 玉川で何か始めたい!
≫第6回 地元の人たちと一緒に子育てしやすい玉川に
・・・・・・・・・・・・・・・
|第2回 玉川のおばあちゃんのおもてなし。
- 海野
- 前職で情報誌『すろ~かる』の編集者、カメラマンとして活動していた時は、静岡市内をはじめ、たくさんの地域を取材していましたね。
- 原田
- はい。2007年の4号目から『すろ~かる』の取材制作に参加して、いろいろな地域に出かけました。
- 海野
- 「まちおこし」や「中山間地の振興」に関わりたい、というような志があったんですか。
- 原田
- いえいえ。情報誌に関わりはじめた頃は、「こんな雑誌を作ってなんの役に立つのか」などと思っていました。その頃は個人的にも落ち込んでいた時期で、やさぐれていたんです(笑)。
- 海野
- あまり前向きではなかったんですか。
- 原田
- 最初はそんな気持ちだったのですが、編集に関わっていくうちに、自分がいいと思ったモノやコトを人に伝える仕事が楽しくなって…。徐々に、情報誌の仕事にやりがいを感じるようになったんです。
- 海野
- そうだったんですね。ところで、いろいろな地域を取材した中で、安倍奥の「玉川」地域に関わるようになったのは?
- 原田
- ある時、長野県の山村を紹介するテレビ番組を見ていて、「限界集落」という言葉を初めて知りました。その時に、静岡市にも限界集落があるのなら「自分の関わっている情報誌で何かできるかもしれない」と思ったんです。
- 海野
- はい。
- 原田
- わたしは愛知県出身で、大学進学のときに静岡市にきたので静岡県に山村があることも知らなかったんです。それで、静岡県の中山間地のことを調べるようになり、いろいろな人に会って、安倍奥の話を聞く中で、玉川のおばあちゃんを紹介してもらったんです。
- 海野
- おばあちゃんがきっかけで玉川に出会ったんですね。
- 原田
- そうです。そのおばあちゃんは、毎月第1、第3土曜日に、静岡市の「浅間通り」で朝市を開いていました。さっそく、おばあちゃんに会いに朝市に出かけたところその場で「だったら、うちに遊びにおいで。」と言ってくれて。
- 海野
- へえ。
- 原田
- 出かけてみると、おばあちゃんの家は、玉川地区の奥に位置する仙俣川上流の奥仙俣という集落のさらに奥。「こんなところに人が住んでいるのか」と思うほどの山深い場所でした。
- 海野
- ずいぶんと奥地だったんですね。
- 原田
- そんな山奥でしたが、家の隣には茶畑が広がっていて、目の前に実りの多い畑があって…。その景色が素晴らしくて、感動したんです。
- 海野
- ぼくも玉川のおばあちゃんの家に行きたくなりました。
- 原田
- それから何度も玉川に通うようになって、そのたびに、おばあちゃんから心のこもったおもてなしを受けました。
「おおさわ縁側カフェ」でもおばあちゃんがおもてなししてくれる。
- 原田
- 当時の私は会社とアパートの往復の毎日で、地域の人との交流はまったくありませんでした。私にとって、おばあちゃんのおもてなしは、人の温かみを感じる貴重な体験でした。
- 海野
- そうでしたか。
- 原田
- 最初は「限界集落に暮らす人に何かをしてあげたい」という気持ちでいたのですが、現地に通うようになって逆に多くのものを与えられている自分に気づきました。
- 海野
- それはいつ頃でした?
- 原田
- 2008年、29歳の頃のことです。