48.華道家・辻雄貴空間研究所/辻雄貴氏(2)

2018年08月30日12:00
今月の物語の主人公は・・・
辻雄貴空間研究所代表・辻雄貴(つじゆうき)さん

48.華道家・辻雄貴空間研究所/辻雄貴氏(2)
 1983年 静岡県富士市出身。工学院大学大学院 工学研究科建築学修了。同大学在学中にいけばなと出会い、いけばな作家・竹中麗湖氏に師事。建築という土台の上に「いけばな」を展開することで、建築デザイン、舞台美術、プロダクトデザインなどの、既存の枠組みを超えた独自の空間芸術を演出している。芸能とものづくりの神の名を冠した「シャクジ能」では、移動舞台のデザイン・基本設計や舞台美術などを手がけるディレクターとしても活躍。2013年、フランスにて「世阿弥生誕650年 観阿弥生誕680年記念 フェール城能公演」の舞台美術を手掛ける。2015年「シズオカ×カンヌ×映画祭」のアーティスティックディレクターに就任。2016年、ニューヨーク・カーネギーホール主催公演では、いけばなを披露。カーネギー初の華道家公演となる。2017年、スペイン フェリペ6世国王夫妻来日時に、天皇皇后両陛下ご臨席のもと、浮月楼「月光の間」にて献花・室礼をおこなう。辻雄貴空間研究所代表。

辻雄貴空間研究所ホームページ


※聞き手は、(株)しずおかオンライン代表/海野尚史です。
※この記事は、全4回のインタビューのうちの2回目です。
≫第1回 竹中麗湖先生の「それはおもしろいから、やるといい!」
≫第3回 20代のガムシャラな時代が財産に
≫第4回 いけばなと能楽を融合するパフォーミングアーツに挑戦

・・・・・・・・・・・・・・・
|第2回 声がかかることは、すべてチャンスに!

海野
いけばなを習い始めての第一印象は?

正直なところ、少しもおもしろくないし、「建築とはまったく関係ないな、こりゃまずいな」と思いました。

海野
それでもやめなかったんですよね。続けたのはなぜ?

竹中麗湖先生が、とても魅力的だったからです。竹中先生が言うなら続けてみようと。竹中先生がいたから、頑張れたんです。

海野
竹中先生の「いけばなの枠にとらわれない、植物を使った自由な表現」を追求する姿勢と、辻さんの目指すものとに、どこか通じるものがあったんでしょうか。いけばなと建築が結びついたのは、いつ頃ですか?

大学院に入ってからですね。大学で学んだ西洋のモダニズム建築と「いけばな」は、最後まで結びつきませんでした。その後、大学院で日本建築を学び、研究室のご縁で、古民家や地方の集落に出かけました。日本建築を実測しながら学ぶうちに、いけばなと建築が近づいていきました。

海野
西洋の建築とは結びつかなかったんですね。

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もうひとつ、いけばなと建築が結びついたきっかけになったのが、雑誌に『人と建築と植物と』というコラムを書く機会をもらったことです。

海野
コラム?

「いけばな」の勉強を始めて数年たった2010年に、草土出版から『植物デザイン』という雑誌が創刊されました。竹中先生を通じて、この雑誌の編集者からコラムを書かないかと声をかけていただいたんです。

海野
すごい。よい機会をもらいましたね。

「いけばな」からの目線で建築を紹介する文章を書く、という企画だったんですが、この連載が僕の頭の中を整理する上でとても役立ちました。連載を担当した2年半、毎月、いろいろな本を必死で勉強しながら、自分の感じたこと、考えたことを言葉にしました。苦しかったけれど、おもしろくもあり、とても鍛えられました。

海野
社会人としてのスタートは?

卒業と同時に建築設計事務所に入所する学生が多いのですが、僕は大学院を卒業した25歳で、いきなり自分の事務所・辻雄貴空間研究所を立ち上げました。建築設計事務所で丁稚奉公するのは、自分には向かないなと。名刺には「建築家・華道家」と併記して、両輪でのスタートでした。いま、34歳ですから、9年前のことです。

海野
名刺には併記していますが、軸足は建築家と華道家のどちらに?

建築家です。いけばなは、あくまで建築を作るための手段。「いけばなのアプローチで建築を作ります」というのが、セールストークだったわけです。

海野
ええ。

でも、最初の数年間は、全然食えなかったです。とにかく、頭でっかちでしたから(笑)。口ではカッコいいことばかり言っていましたが、地に足がついていませんでした。しばらくは、日給8000円交通費込みの日雇いのバイトで食いつないでいました。

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海野
そのような時代は、何年ほど続いたんですか?

25~28歳頃の3年です。建築現場のバイトは大変でしたけど、建築物が作られていくプロセスを知ることができ、作業員の統率の仕方など、いい勉強になりました。

海野
転機は、どのようにやってきましたか?

バイトで食いつないでいた頃、能楽囃子方 大倉流家元の大倉源次郎さんから、「今度、フランスの古城でお能の公演を行いたいから相談に乗って欲しい」と電話をいただきました。この電話がきっかけでした。フランスでのお能の公演(能フェスティバル 世阿弥生誕650年観阿弥生誕680年記念フェール城能公演)のプロジェクト成功が、いまの活動につながっています。

海野
そうでしたか。

日雇いのバイトが終わってから、フランスでのお能公演プロジェクトの打ち合わせに参加して、書記をしたり、チラシのデザインをしたり。やっていることは雑用係でしたが、心の中では「これはチャンス!」と思っていました。

海野
東京から静岡(出身地の富士市)に拠点を移したのもこの頃ですね。

はい。大倉源次郎さんから「フランスの能舞台は竹で作りたい」と課題を出されていました。で、能舞台で使う素材(竹)を探すには、自然に近い場所の方がいいだろうと。たまたま、出身地の富士市には竹林がたくさんありましたから。

海野
はい。

静岡に戻ってから、スノドカフェの柚木康裕さんに出会って、柚木さんから静岡の放置竹林の問題などを教えてもらいました。当初、南フランスの竹で舞台を作る話もあったんですが、静岡の人たちと話しているうちに、“静岡の(放置竹林の)竹を自分たちで伐採して、フランスに送ろう”というアイデアを思いついたんです。

海野
それはいろいろと大変そうですね。

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地元の人たちと伐採した放置竹林

結果的に、地元の林業や里山の保全に取り組む人たちの協力と、鈴与さんの力を借りました。輸送については、鈴与の現会長である鈴木与平さんに直談判して、実現できたんです。この時フランスに送った竹は、静岡市葵区足久保の放置竹林です。
>スノドカフェ 柚木康裕さんのインタビューノート

海野
能の舞台美術はもちろんのこと、竹を使う演出も、静岡の竹を自分たちで切ることも、ましてや、竹をフランスに送るというのも、何から何まで始めてのことばかり。

そうです。このプロジェクトをやり切ったことが、大きな自信になりました。何かを作り上げることについての怖さがなくなり、肝が座りました。それから、放置竹林などの竹を素材として使いながら環境を守るという、それ以降の僕のテーマのひとつ「循環型アート」につながっていきました。

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フェール城(フランス)での能公演の舞台

海野
辻さんにとって、とても大きな転機だったんですね。

フランスでのお能公演プロジェクトを通して、もうひとつ、自分の中に変化がありました。それは、建築家よりも華道家という立場の方が、僕の社会に対して伝えたいメッセージは伝わりやすい、と気づいたことです。この時の経験から「これからは華道家として、建築も舞台美術も取り組んでいこう」と決め、建築家から華道家に軸足を移すきっかけになりました。

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若い頃の辻さん/フランス公演黒田さんアトリエにて

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Posted by eしずおかコラム at 2018年08月30日12:00 | 48.辻雄貴さん
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