今月の物語の主人公は・・・
CIELOAZUL代表・青木絵里花(あおきえりか)さん
静岡市清水区生まれ。大阪の雑貨会社勤務後、20代前半で独立起業。1997年に静岡市葵区伝馬町にセレクトショップCIELOAZUL(シエロアスール)を、3年後にカフェcielo azul cafeをオープン。その後、常磐町への出店を経て、現在は鷹匠を中心に4店舗を経営。2015年1月には葵区駿府町に、バー「小サイ」をオープン。起業以来17年にわたり、静岡市の中心市街地“おまち”で人気店を経営している。
◆CIELOAZUL/シエロアスール(洋服、雑貨)
◆ブログ「cielo azul Material」
(心地良いを纏う日々)
◆cielo azul cafe/シエロアスールカフェ(カフェ)
◆NAVY.WO Shizuoka
/ネイビー・ウォ静岡(洋服)
◆小サイ/コサイ(バー)
※聞き手は、(株)しずおかオンライン代表/海野尚史さんです。
※この記事は、全3回のインタビューのうちの2回目です。
≫1回目のインタビューはこちら
≫3回目のインタビューはこちら
※インタビューはバー「小サイ」にて行いました
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|苦労した常磐町のお店
-常磐町のお店のオープン後は大変でした?
青木/はい。呉服町を挟んだ伝馬町と常磐町にお店を持ったことで、お客さまには呉服町だけじゃなく“おまち”の周辺も回遊して、静岡の街歩きやショッピングをもっと楽しんでもらえるようになるんじゃないか…、などと勝手な夢を描いてしまったんです。
-それは静岡の街にとっても、素晴らしい夢じゃないですか。
青木/でも、それはわたしの完全な思い上がり、ただの妄想でしかありませんでした。今思えば、静岡の若い人が青葉公園通りで遊んだのは、2000年代前半の頃が最後でした。とにかく、常磐町のお店は苦労の連続でした。
-それは、お店がハヤらなかったってこと?
青木/そうです。お客さまの数が、なかなか増えませんでした。それに来店しても、見るだけというお客さまが多かったんです。わたしとしてはとてもがんばって、伝馬町のお店の商品よりも上質で、こだわったもの、カッコいいものを揃えたんです。
-ええ。
青木/自分の中には、今まで以上にクオリティの高いものを提案すれば、静岡の人はきっと、もっとよろこんで、買ってくれるだろう、そう思っていたんです。それが間違いのはじまりでした(笑)。
青木/東京からわざわざ来てくれるお客さまにはとても喜ばれるのに、静岡のお客さまには受け入れてもらえない。2003年頃からそんな状況になっていきました。
|“オシャレ”よりも“節約”の時代
-こんなはずじゃなかった?
青木/そうですね、起業してからはじめて「あれっ?どうしたんだろう?」っていう感じがしました。それまでもお金では苦労しましたが、もの選びだけは自信を持ってやってこれてたんです。自分が選んだものの魅力は、お客さまにも伝わって、会話もはずみ、ちゃんと売り上げにつながっていました。そんな確信を、持てなくなっていったのがこの頃からでした。
-何が変わったんでしょう。
青木/静岡のお客さまのオシャレに対する意識が変わりはじめたのが、このころだったと思います。“オシャレ”よりも“節約”っていう空気が広がって。そんな変化を感じながら、自分だってお金がないくせに「よいものはきっとわかってくれる」って、カンチガイし続けていたんです(笑)。
-そこで「まずいぞ」と気づいたんですね。
青木/いや、まだまだカンチガイは続くんです(笑)。それで借金ばかりが膨らんで…。新しいお店はスケルトン契約だったので、退去する時にもお金がずいぶんとかかってしまいました。常磐町への出店は、モーレツに勉強になりました。
-常磐町では何年がんばったんですか?
青木/2003年から2008年まで、5年はやりました。
|薦められるまま鷹匠へ、覚悟の移転
-常磐町のお店で、商売というものは自分の思い通りにはいかないことを経験して、その次に鷹匠へ移りましたね。
青木/そうです。文房具、ジュエリー、お洋服とカフェ…と、当時経営していた3つのお店を順番に鷹匠へ移転しました。
-鷹匠に近い伝馬町のお店も引っ越したのは、なぜですか。
青木/なぜだったかな?そうそう、きっかけは不動産屋さんに「鷹匠はいいよ」って言われたから。それまでのわたしの中には、“鷹匠”は商売の場所として、まったく候補になかったんです。だからなんにも知りませんでした。
-しかし引っ越しを決めたんですよね。決める前に、下見に行くでしょう?
青木/もちろん行きましたよ。平日に歩いている人なんてまったくいなくて、「えっ、こんなところ?!」というのが第一印象でした。
-それでも鷹匠に移転したのはどうして?
青木/それは、家賃が常磐町や伝馬町よりもとっても安かった、という現実的な理由から。そのころは資金繰りに困り果てていたので、背に腹は代えられなかったんです。
青木/正直にいえば、逃げるようにして鷹匠に来ました。わたしのお店は、どのみち“おまち”のど真ん中でやる商売ではないですし、もう鷹匠に賭けるしかないって、そういう覚悟の移転だったんです。
|求めているものを提供することの大切さ
-そうだったんですか。でも、移転してすぐに“鷹匠”ブームがやってきましたよね。
青木/そうでした。移転した翌年あたりかな。“鷹匠”を最初に特集してくれたのが『womo』(ウーモ)さんでしたね。
-はい、「鷹匠エリアは静岡の代官山…」みたいな扱いでした(笑)。あの時の「鷹匠特集」は、編集部もびっくりするほど反響がありました。
-ところで、鷹匠のお客さまは常磐町や伝馬町とは違いましたか?
青木/違いましたね。いわゆる、お客さまの品がいい。洋服に求めるものとか、生活に対する価値観などの話がとても合いました。それは、自分自身も30代半ばにさしかかり、それなりに経験を積んで成長していたから、だったのかもしれません。そんな自分と鷹匠のお客さまの嗜好がぴたりと重なった感じがしました。
-鷹匠への移転は、いいほうに転がりましたね。
青木/2008年頃からファストファッションがブームになったことも、背景にあったと思います。中国製のお洋服が大量に出回りましたが、お客さまの中には、そのような服にアレルギーが出る方もいて…。ですから、わたしは日本製のクラフトの安心できるお洋服を扱いたいと、これまで以上に強く意識するようになりました。今扱っているブランドに出会ったのもその頃です。
青木/若い頃は、自分好みのオシャレなものや、都会的なもの、身につけているとテンションの上がるものに魅かれましたし、そういうものを売りたいと思っていました。
-はい。
青木/それが、鷹匠に移転してお客さまと接する中で、自分が売りたいものより、お客さまが求めているものを提供することの大切さを、本気で理解できるようになった。後になってみればあたりまえのことなんですけど。時間はかかりましたが、鷹匠にきていろいろ学びました。
|考え方をしょっちゅう改めているんです。
-お店を始めて10年たって、ようやく気づいたんですね。それはよかった。
青木/そうですよ。そのことに気づく前に、商売を辞めちゃう人はたくさんいますから。わたしはね、考え方をしょっちゅう改めているんです。
-それは、常にきちんと学んでいる、ということだと思います。
青木/いつも、お客さまに育てられ、世の中に育てられ、失敗に育てられてきている。それがわたしかな。
-世の中の変化に適応したり、お客さまの気持ちを理解しようとしたり?
青木/「他では買えないもの」というこだわりよりも、今は「日本製で、品質のいいもの、安全なもの」を提供したいと思っています。たくさんのお洋服を持つよりも、いいもので、長く着つづけられるもの、自分でお洗濯できるものに、もちろんオシャレもプラスして。つまり、お客さまが求めていて、わたしも共感できるものを見つけて、提案することを一番に考えるようになりました。
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