今月の物語の主人公は・・・
河 村 恵 理 さん
第3回インタビュー・ノートの主人公は、静岡県出身で現在はドイツ・ベルリンで日本のアートやアーティスト、文化をドイツに紹介するお仕事をされている河村恵理さんです。
※このインタビューは、全3回のうちの2回目です。
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|日本との社会的表現の違いを知りたくて、ドイツへ
―河村さんは25歳でドイツに渡っていますよね。ドイツには、どんな経緯で?
河村/そもそもの転機は大学進学の際に美大を選んだこと。当時は進学したいと思える学科がなく、勉強する意味もわかっていませんでした。最終的に自分が一番好きな科目を選ぶことにしたのですが、それが図工でしたので、そのまま美術大学を受験したというわけです。単に、人と違うことをしたかったのかもしれません。また、生まれつき目が悪かったせいか、人並み以上に「何かを見たい!」という執着心が強かった。「美大」と「何かを見たい」が繋がって、美大の芸術学科専攻という道を選びました。
―そこからドイツへは、どのようにつながるのですか?
河村/卒論のテーマを探していた大学4年の時に、「ドイツ表現派」との衝撃的な出会いがありました。ドイツ表現派は1920年代に活躍した絵画集団で、感情を激しい色使いや筆づかいで表現するのが特徴なんです。この表現主義を調べて行くと、60年代に同じドイツで起こった新表現主義と呼ばれるムーブメントに行き着きました。それは、過去の戦争に対してアーティストが社会的責任を表現するというもの。日本でも1人、2人のアーティストが表現してはいましたが、ムーブメントには至っていません。
ドイツと日本、同じ敗戦国でありながらなぜこんなに表現の仕方が違うのか、ドイツに行って確かめてみたいと思いました。その後、友達がベルリンでギャラリーを開くというので、これ幸いと渡独してしまいました。引き止めることもなく行かせてくれた家族には本当に感謝しています。渡独してずいぶん時間が経った今になって、なぜドイツと日本の作家の社会的表現に差があるのかという答えが、以前よりも少し分かってきた気がします。でも、まだ最終的な答えには行き着いていません。

Murata&friendsギャラリーにて 撮影/西辻奈緒 2001
|他人とは違う「私」であるということ。表現の自由と責任と
―現段階では、その社会的表現の差をどのようなものだと考えていますか? その違いを、ドイツの文化や日常生活で実感することはありますか?
河村/これは言葉の問題から入らないといけないと思います。ドイツ語の文章を組み立てるときは、「主語+動詞」が基本です。何をするにも何を考えるにも、まず主語が必要。一人称の場合、日本語では「コップをとりました」で通じる文章も、<誰>がコップをとったのかを必ず言わなければならないのです。
私がコップをとった。
私が考える。
私が言う。
私が食べる。
私たちが見る。
つまり、動詞を使うときは必ず主語がセットなんです。ドイツ語を勉強して一番頭を悩ませたのがこのことですね。どんな文章でも「自分が~する」「自分が~した」「自分が~するだろう」というように、常に「自分」を入れなければならないという。
―何ごとも「自分が」から始まるわけですね。
河村/そうです。常に、「Ich(私は)」を意識する。ドイツ語を習い始めた時、動詞が先に頭に浮かんで、次に誰がそれをやるんだっけ?と思考していました。だから会話がワンテンポ遅れてしまう。「誰が」を文の最初に必ず入れる、ということを小さな頃から学んでいたら、相当に自意識が鍛えられるのではないかと思います。ヨーロッパでは、長年そういった「主語+動詞」でしゃべってきた歴史があります。一人称がはっきりすることで他人の存在も際立つので、自分は自分、他人は他人という意識がはっきりします。
―主語が曖昧でもなんとなく通じてしまう日本語に対して、西洋の言葉は「なんとなく」が許されないと。
河村/自分は自分、他人は他人で、違う存在。存在が分離しているのが分かります。自分と他人が違う存在だと認識すると、それぞれが自己責任を負っている感覚が必然的に芽生えるのではないでしょうか。
―自分の発言に責任を持つだけでなく、他人の発言にも責任を求めるということでしょうか。責任の所在が明確になる。
河村/自己責任を負っているので、表現されるものは表現した人の責任。誰の表現であれ、生まれてしまった表現はその存在を認めざるを得ない。そして、評価は別にして、表現への同調や批判、あるいは沈黙は自由。表現する側もそうでない側も、個人の表現の自由、発言の自由を認めるかわりに、その行動に対する自己責任は表裏一体になっている。個人の自由と自己責任は一体であるという暗黙の了解が、西欧言語の国々にはあるんじゃないかと思います。では、表現の自由は個人の自己責任だからなんでも表現してよいかというとそうではなく、そこにはキリスト教の背景にある倫理観がストッパーとしての役割を担っている。
ニーチェは「神は死んだ」と言いましたけれど、まだヨーロッパ内では生活習慣や倫理観は、キリスト教の影響が体に奥深くまで染み着いているのではないでしょうか。もちろん法というものも大切ですが、人間が作った法ではなく、倫理観というものが人間の存在を越えた神からの啓示ということで成り立っていたら、だれにも文句を言わせない力があります。ドイツの作家と日本の作家との表現の差ということですが、アートにかぎらず、日常の表現、言葉にせよ、態度にせよ、倫理観の背景が違うのですから、違っていても当たり前だと思いました。
社会的表現の差というものは、個人の自由とその裏側にある個人の責任とが一体になっていること、そして一体になっていることが共通の認識になっていること。この部分が共有されているので、例え一個人であるアーティストが社会的な表現をしたとして、これに同調するあるいは批判する者が現れたとしても、でもその同調したり批判したりする人もやはりアーティストと同じように個人として表現している訳で、このようにそれぞれの個人が賛成するにせよ、厳しい意見を述べるにせよ、共鳴することができる構造があるのでしょう。
日本は西洋化を受け入れる時点で、個人の自由を上手に取り入れてきたと思います。その一方で、個人の自由と表裏一体になっている自己責任というものも、はたして一緒に取り入れたのか?西洋と日本は文法から違うし、自由のとらえ方が違うと感じます。
―そうですね、私たち日本人は、自由は主張しても、責任は負いたくない、または考えていない、ということがあるかもしれません。自由と自己責任を必ずしもセットで捉えてはいない。
河村/コラムの第一回(
http://doikoi.eshizuoka.jp/e926463.html)でもご紹介した通り、ドイツの国民的アイドル、レナさんを支える人はこちらにすごく沢山いますが、彼女は個人で受けてたってます。日本のアイドルは、それはもちろん大勢のスタッフもいらっしゃると思いますが、グループですよね。これは日本の企業にもいえると思いますけれど、日本は団体力というものはすごいパワーを発していると思います。これは誇りを持っていいと思いますよ。なので日本とドイツの違いは団体力と個人力の差かもしれません。では、団体の責任と団体の自由というものはセットか?という疑問が残りますけれど。
―うーん、難しい問題だ。でも少しわかった気がします。
|とにかく体当たり。立ち止まっては足元を見つめ直す日々
―河村さんのドイツ滞在をいくつかの時期に分けると、どのように分けられますか?
河村/そうですね、大きく4つの時期に分かれます。最初は2000年から2005年、滞在しはじめのころ。ドイツ語もうまく話せず、苦労した時代です。ギャラリーを共同運営していて、自分としては自信を持って時代を切る作家を紹介していたつもりでしたが、経済的にはとても苦しかった。そもそもアート業界のことをわかっていませんでしたね。飛び込みでアートフェアに参加したり、コレクターに出前のようにお届けにいったり、展示企画をしたりと、とにかく体当たり、現場で勉強の毎日でした。展示企画は、助成金頼り。助成していただける団体を見つけてはどうにか展示企画を行うような綱渡りの時代でもありました。
近所の共同事務所 Programにて机をかりて仕事場としていた頃。2006年
―ギャラリー運営にあたって、河村さんはどのような理想を掲げていたのですか?
河村/「とにかくいいものを紹介する」ということが第一でした。経済的なことは後からついてくるだろうと、タカをくくっていた部分もありました。若かったですね。今から同じことをやれといわれたら、辞退しますよ。
―理想を追いつつ、現実の壁を経験した時期といえますね。
河村/次は、2005年から2007年。ドイツ語にも慣れてきて、言葉の壁を超えて自分の理想とすることがようやくできはじめた頃です。この頃、ギャラリー経営について私と相手の理想に方向性の違いがでてきて、私はギャラリーを離れます。この時、ちょうどいいタイミングで「ノイエナショナルギャラリー」で研修を受けながら1年ほど仕事をさせていただく機会がありました。仕事の内容は、東京の森美術館でも展示を行ったベルリン版の「東京-ベルリン/ベルリン-東京展」の準備でした。この仕事を通じて、ドイツ的チームワークとドイツの美術館の懐の深さを知ることができました。その後奨学金をいただいて、またまたドイツ語講座に通ったり英語を勉強したり、共同事務所を借りたりするなど、この期間はもう一度自分のために勉強する期間だったと思います。
―一度立ち止まって、自分の足元を見つめ直す時期でもあったんですね。共同運営のギャラリーを離れた「方向性の違い」というのは?
河村/経済観念の違いです。相手は東ベルリン生まれで、私は資本主義どっぷりの日本人。始めはお互いに無我夢中でしたからよかったのですが、ギャラリーの規模を大きくできるかも、という時に意見の相違が顕在化して。私のビジョンとは合わなくなっていきました。
―社会主義と資本主義の国で育った二人が、経済観念のレベルを共有することは難しそうです。同じ国でも簡単ではないかもしれません。結果的として、一人の道を歩み始めた時期でもある。「東京-ベルリン/ベルリン-東京展」の準備で感じたという「ドイツ的チームワークとドイツの美術館の懐の深さ」とはどういうことか、具体的に教えていただけますか。
河村/ドイツチームのディレクターにシュスターさんという権威ある方がいたのですが、資料を見せると「Wunderbar!(すんばらしい!)」としか言わない。きっと、口癖だったのでしょう。それにしても誉めることしかしない人でした。副館長のシュナイダーさんは、誠に才女という言葉がぴったりの方。オープニングでスピーチをしたのですが、45分ほどの原稿を完璧に暗記してスピーチしていました。それはすごかった。業務は平日は17時で終わりなのですが、まだ仕事がいっぱい残っているのに「もう17時だからかえりなさいよ~!」とスタッフに声をかける。シェスターさんもシュナイダーさんも、このチームには一定レベル以上の仕事のできるメンバーが集っていたので、スタッフを信じていたのだと思います。上司や部下といった上下関係はなく、割り当てられた仕事をみな淡々とこなしつつ、必要な時には助け合うという姿勢がチーム全体にありました。あまり同僚や上司から仕事のチェックなどは入らなかったですね。
ノイエ・ナショナルギャラリーの展示「Berlin-Tokyo/Tokyo-Berlin」展 2005
―まさにプロの仕事、プロのチームですね。気持ち良く仕事ができそうです。
河村/ドイツの美術館の懐の深さは、まず準備室にあった机から感じました。木の一枚板で長さが10メートルぐらいあったでしょうか、シンプルな机でしたが、机の脚はアールデコ調に装飾されていました。その机が準備室にどーんと置かれていて、模型を作ったり資料を整理したりする時に使っていました。後で聞いたところ、その机は19世紀の骨董でした。
―機能が十分で美しいものは、時代を超えて使い続ける。健全な判断だと思いますが、日本ではなかなかないことかもしれない。規則やら何やらが優先されがちです。
河村/3つ目の時期は、2008年から2010年。写真家・山本昌男さんの代理人業の話をいただいたことがきっかけで、3年ほどの充電期間からまたアート関連の活動を再出発しました。山本さんの作品展や挨拶のためにいろんなところを回りましたね。ドイツ国内だけでなく、アムステルダムやアントワープ、イギリス、スイス、モスクワまでも行かせていただきました。その一方で、以前ギャラリーをやっていたころのことが思い出され、一人でもできるのではないかと思って自分でギャラリー空間をもって、幾度か企画展を開催してみました。でも、うまくいかなかったですね。この時に、私はギャラリストのタイプじゃないのだと身をもって経験しました。
スペースを借りて運営したギャラリー la-condition-japonaiseでの福田恵&Jinran Kim 展
撮影/福田恵 2008
|作家の「化身」になる、代理人業という仕事
―再経験したからこそ自分の力や適正が自覚され、結果はどうあれ納得できたわけですね。山本昌男さんの代理人としてアート関連活動を再出発するにあたって、決意のようなものはあったのですか。
河村/山本さんとはお互いに、ヨーロッパでギャラリーを増やそう、販売数を増やそう、という目標がありました。山本さんの作品は先にアメリカで展開されていて、ヨーロッパにも少しずつ名前が知られ始めていました。私が担当する前に、最初に展示会を開催するギャラリーは決まっていましたので、私は楽をさせていただいたと思っています。山本さん側には決意があったと思うのですが、当時、私がその決意と同じレベルに届いていたかどうかはわかりません。一緒にやっていく中で、チーム山本として(山本さんと奥様、他の代理人の方々)、これはたいへんなことだ、もっと自分もしっかりしないといけない、と責任とやりがいが高まっていきました。アート関連の活動をどうにかカタチにしたいという思いは常にもっていたので、この話をいただいて本当にありがたかったです。
ロシア・ポベダギャラリーでの展示風景。右側が山本さん、中央の女性が河村さん
撮影/柴村順一 2009
―代理人業務の仕事の大変さと面白さは何ですか?
河村/私が作家本人に変わって伝達したりすることが多いので、本人になりかわって考えることです。最初は、展示場所を探すことにも苦労しました。アメリカでは知られているといっても、ヨーロッパでは知る人ぞ知るの存在でしたので、ヨーロッパでどう認知させていくかが最初の課題でした。アメリカの市場が広がるスピードとヨーロッパのスピードは違うので、市場があってもそこの波を上手くつかまえられるのか、乗り遅れてしまうのではないかという懸念もありました。そんな心配も含めて、作家本人の化身となって、悩んだり、熱意を伝えたりすることがこの仕事の面白さであり、大変さだと思います。
面白いのは、「作品をあそこで見た」「ここで見た」と言われること、作品のどんなところが良いとか、こんなことを思っているとか、作品を通じて会話が生まれることです。
―作品を通じて会話が生まれることは、アート関連のお仕事の大きな喜びでしょうね。これまで知られなかった場所での最初のコミュニケーションが生まれる場に立ち会えることも刺激的です。
河村/2011年から現在にかけては、アート関係ではないのですが、お仕事として他の分野、例えばスポーツイベントや旅行関係などのコーディネートのお仕事も手がけました。この関係でアート関係者以外の方からも、仕事のコツやチームワークなどを学びました。引き続き代理人業では取り扱いのギャラリーが増えたり、美術館の展覧会やフェスティバルに呼んでもらえるようになりました。また別のアーティストの企画展をするべく、展覧会スペースを探してオーナーさんに交渉し、展示会を開いたりもしました。「レジデンス未来」のお話もこの期間のもので、仲介役としての業務に集中した時期にあたります。
※このインタビューは、全3回のうちの2回目です。
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